昭和45年10月28日 朝の御理解



 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うと云うことがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 真がなければ人は助からぬ。先ず私が真にならなけれならん。ね、自分自身が助かると云うこともやはり真。人が助かることも真なら、やはり自分自身が助かる事も真。先ずだから自分が助からなければならん。自分が助かると云うことは、ね、真にならなければならない。そこの所を頂いて行きたいと思いますね。昨夜は久留米支部の共励会でございましたから、皆さんが帰ってみえるのを何時も待たせて頂く訳ですけれども、昨日十時半頃だったでしょうか、テレビを見せて頂いとった。
 それも途中からですから分かりませんけれども、まあちょっと喜劇風のテレビ映画ですが、若い漢方医ね、の人のお医者さんですね、漢方医、が、なかなかいわゆる奇骨のありそうなまあ面白い性質の、いわゆるほんとに真とはこういうもんだろうかと思う様な事がまあ風刺されたり、ええ感じられる様な感じの、まあ今の近代医学をこうまあ何と云うですかね、風刺したような感じだったですね。
 例えば、今のまあ例えばお医者さんなんかは、例えもうこの病院を閉めると云う様なもう分かって居っても、そこをま、いい加減にそのまあ金さえ儲ればいいと云った様な医者が多いという。ね、患者がお爺さんが見えとる。ところが脈をとったところがもう自分の所では駄目だからとこう言われる。それでもどうぞと言うけども自分をにらんで、もう帰った後にその他の人に言ってるのに、その死脈、脈を取ったらあれはもう一カ月後にはもう死ぬるその脈あれだと。
 だからもう自分はそれをよう見らんとこういったり、若い娘さんが子供を堕してくれという。なるほど漢方、そういう方法もあるし、又は薬だけで堕ろされる方法もある。けれどもね、けれどもそのそれは君の命に関わることだぞと、いや、命がね、それだけ縮まることだぞとその事を説明しております。だからもう一遍彼氏と相談して、まあ生活のまだ今の状態では子供は持てないと云うのだろうけれども。
 君の命に関わる事だから、それは止めた方がようはないかと。例えば考えて見なければいけない、と云うてその色々を説明してやってるんです。自然に逆らうてはいけん、君は人間のこの骨と云うものが何本あるか知ってるか。知らない、ね、人間の五体中にある骨は、三百六十五ある。何か思い当たることはないか。そんならそれは一年の日数と同じですねとこう言ってあるわけですね。
 ならこの大きい関節が幾つあるか。ね、この大きい関節が十二ある。してみるとこれは一年十二カ月と言うじゃろうと。十二カ月だと、小さいこの関節は幾つあるかと。ね、二十八ある。いわゆる一月の数だと、と、云う程にね、自然と人間の体と云うものは繋がっているんだと。いわば大天地に対する小天地と云うそのね、そういう理を説いている。漢方医と云うのは漢方薬とか漢方医と云うのは。
 そういうその自然の成行きと自然の、に、生えておる草とか木とかをまあ薬にしてあるぐらいですから、そういう事までが研究されておるんだと私は聞きながら感心しました。だから君、それを考えただけでもね、自然に逆らうと云うことがどんなにいけない事か、ね。それはもうほんとに君のそりゃ堕ろせれる薬はあるんだと、薬だけででも。けれどもそれではね、君の命を縮める様なものだと言うて説明したら。
 あの若いその嫁さんですね、もうそれは大変感心して納得してあの帰る場面があっとりました。私はほんとにあの、お医者さんと云うのは医者だけで助けるのじゃない。薬だけ、技術だけ薬だけじゃぁない。ほんとに私しゃそういうね、あの助け方こそ私しゃ真だとこう思いましたね。そのそれはまあ今の近代医学をなんか風刺した様な感じの、まあ映画でしたけれどね、その中で私そんなものを感じました。
 なるほど堕ろしてやったり薬を与えたりすりゃそれだけ医者は儲るんだ。ね、もうこりゃ死ぬと思うても、そのまあ都合よう言やぁ、それで医者はいくらかになる筈なんだ。けれども、そういうところをですね、そのいわゆる真を以って人に話したり、教えたりして本当の助かり、人が助かることさえ出来ればと云うかねえ、真がなければ人は助からぬとまあそれは映画ですけれども、ほんとに無事にその方が。
 その患者が赤ちゃんを、持ってまぁ苦労はしても、それは育て上げていったら、ね、ほんとにあのお医者さんの、おかげでと云う事になるだろうとこう思う。私ども金光様の御信心を頂く者の、ほんとにそういうその、真がなければ人は助からん。ためには先ず自分自身も真にならなければ、自分自身が助からん。昨夜、遅うまで熱心に共励会が、共励が久留米でありました。
 ええ久富さんと大和さんがちょっと遅れて居られましたから、あれから又市場へ行かれた。暫く待っとったけど帰って見えません。その待って居る間に、ま、佐田さんと色々話をさせて頂いたんです。あちらご夫婦と私と三人で、ね。それで色々なお話の中から、その何と云うですかね、真と云うかね、又自分自身が助かっていって居られる様子を私感じとらせて頂いた。
 あちらの御主人が恭造さんの弟さんが、まる丁度三年間お医者さんになって居られましたが、又改めてアメリカの方へなんか選ばれて留学をされました。もうそれこそお母さんは勿論ですけれども、兄さんの恭造さん夫婦も、あちらは夫婦で行って居られましたから、もう一生懸命後ろ祈念と云うか無事にあちらで勉強が済んでは早く帰るように、帰らせて頂くように、もうそれこそ指折り数えて待って居られた。
 ところが、ええまあ学をなして帰って見えられる。もうまあちょっと飛行機の具合で何日か遅れられましたから、その間でも大変心配をして、いわゆるやっとりました。で丁度帰って見えられましたのが十九日でした。ここの御大祭の前日です。ほいであちらまで迎えに行かれ、それで帰りもここへ寄ってお礼参拝をして帰られた訳でございますけれども、丁度帰られたらお母さんは丁度小倉へ総代さんの代表で。
 小倉参拝をして居られた。家に帰ったら皆んなが合楽へ御用御用と言うて御用に行ってしもうておられた。まあそれで第一かちっとこられたんですねえ。あんまり神様神様 と一家中が信心が、愈々明くる日、二十日にならせて頂いたらあのう子供さん達まで学校を休んで合楽へ合楽へと言う、もう愈々その頭に来たんですね。学校を休ませてからまでも何が信心かと云う訳です。
 しかも学問一筋でいわば人を助けることの勉強をして来られたのですからね。そして愈々もうそん御大祭時間間近になってきたらそのお爺ちゃんまでが、まあお参りをするちゅうて、だから結局そのたまたま、たまたまじゃない、その三年振りに帰ってみえて居られる夫婦を放からかしてみんなが参って行くのでもういよいよ堪忍。ですからまあ当り散らかしてもう弟、奥さんの里かどっかでしょうか、あの帰られてしもうた。
 お母さんのその心配と云うか、もうがっかりと云うかですね、もう期待外れなんです。もう三年間もあれ程しにまああの人の事を祈り願わせて頂いて、無事に帰らして頂いた。しかも神様のおかげでと思うて神様の話でもゆっくり聞いて貰うて、まあこれからその人達夫婦にも信心をして貰おうと、こんなに有難いことになって来た。佐田の家が三年間の間にこの様に家族全体くるめて。
もう合楽一辺倒にならして貰うて、信心もう一から十まで信心、神様を中心にしての生活にならせて頂いて居るが、この様に有難いんだと云うものを見て貰うという、ところがそれが相手には反対になった。ね、信心なかったあのお爺ちゃんまでが、もうさあ大祭と言やぁ帰って来たばっかりの息子達夫婦をおいてから、合楽へ来ると云うのですからね。信心がなからにゃぁ、そのまぁ当り前のことでもありましょう。けれどもこちらの思いといわばあちらの思いと云うものがその様に大変に食い違っておった。
 で昨日言うて居られました。もうほんとに学が身を食うと云うが本当ですちゅうて。ね、人が助かると、なるほどお医者さんですから人が助かる事の勉強は沢山しておみえたけれども、肝心要の自分が助かるところの、いわば手合いというかそういう方法を一つもこうじていない。ね、なるほど人に聴診器を当てられても自分に聴診器が当てられないと云う事なんです。ね、
 信心とは私はほんとにね、自分で自分自身が分かる、自分自身が助かる。そこからね、なら患者でも只学問の上だけに助けるのではなくてです、そのいわば夕べ私が合間にね、十分か十五分かだったでしょう、見せて頂いたその映画の中に出て来る漢方医のそれとこれとを思い合わせてですね、なるほど成行きを尊ぶとか、自然を大切にするとか、ね、と云う様な事がどの様に素晴らしい一つのまあ哲理と云うかねえ、天地の理に合うたことか、人間の体と天地とがその様にも密接な関係を持って居ると云うところから割だしたところの医学と云うのが漢方医学であろうとこう云うこと。
 しかもそりゃお医者さんによることだろうけれども、ね、そこでその人に薬を与えて、子供を例えば堕ろしてやれば、なるほどその時は助かったと言うて喜ぶかも知れん。けれどもそれは根本的助かりにはならない。目先だけの助かりだ。それよりも根本的に助けようとする、いわば医は仁術と云うかね、仁術と云うそのところ、それを与えてもいい、そういう薬もあるけれども。
 君それでは君の命を縮める様なものだぞと根本的に助けようとするお医者さんのその姿勢と云うか態度がです、今ごろそういう医者があるか知らんけれども、それが信心だと思う、私は。それが真だと思う。恭造さんの弟さんが、どんなにこちらで素晴らしい医学を治められ、しかもアメリカで三年間もまた勉強して帰って来られ、どの様なまた素晴らしいお医者さんになって居られるか分からんけれども、それはもうほんとに根本的な助けると云うのではなくて、目先目先の例えば難儀を助けるだけのお医者さんになり下がって居られると云うことを私は感じたです。
 儲るかも知れない。医者として成功されるかも知れない。それではね、ほんとの人間の助かりにはならない。ね、真がない。ね、そこで私達が頂いて居るこの信心を、こりゃま、奥さんの話です。ほんとにこの様な中にこの様に有難いものを感じられる。信心と云うのは、私昨夜も申しましたんですけど、ね、なるほど信心さして頂いておかげを頂いて居る。もうこの様なおかげを頂いて居る。勿体ない程しに。ね、あれを思いこれを思い有難いが、もっともっと有難いと云うことは、この様な事に直面して居る。
 いわば難儀なら難儀に、世の中ではこれを難儀と言うだろう、又は悲しいことと言うかも知れない。そういう様な事に直面しながらもです、有難いものを感じるというのは、もうそれはねえ、それはもうしみじみとした有難さなのだ。ね、信心して極めていかなければならんのはそこなんだ。おかげを頂いて有難い、勿論有難い。けれどもそれではない、いうならば反対の事柄の中にでもです、むしろそこに信心頂いて居るおかげでこの様な時にこの様な有難さが頂けると云うことは、まあなんと有難いことであろうかと云う様なお話だった、夕べは。
 その事を佐田さん、奥さんが言われるんですねえ。ほんとそしてこういう有難さが分かりなさらんちゅうことが残念だとこう言うて居られる、みんなが。なら恭造さん言われることです、けれどもお前考えて見ろと、俺達が何年間本気で信心の稽古をさせて頂いたか。そうしてお前は、一生懸命信心の稽古をさせて頂いてこれだけの事が分からせて頂いたのだから、云うならば信心も無いのに、ね、弟がぽかっと三年振りにアメリカから帰ってきてです、はぁ、もうおかげを頂いて有難かった。
 明日はなら合楽のお祭りなら私どもも参ろうと云う程しにあったら、お前そりゃ大変嬉しいことじゃろうけれども、それであったら俺達の信心が値打がないじゃないかと、俺はそれを思うて自分達の信心頂いとる。ここまでいわばお育て頂いて居たと云うことが有難いと云うことを聞かせて頂いてね、なるほどなあそういう考え方がある。私ども信心さして頂いとると自分が有難いもんじゃけん人にまで押し付けようとする。
 してもう信心の、分からんもんばっかりはちゅうてから、もう自分が初めから分っとるごと思うとる。ね、奥さんこういう有り難い信心を頂いたら、どんなにか有り難い事だろうかと、んなら恭造さん、貞造さん達御夫婦にそれを思われた。ところがその御主人の方はそれをね、俺達が何年がかりでようやくこれだけの事を分からせて頂いて居る事を、なら弟の貞造達夫婦がです。
 もうほんとに貴方方のお祈り添えを頂いてから無事におかげを頂いて帰って来た。丁度大祭に間に合うたちゃなんちゅう有難いことじゃろか、私も連れて参って下さいと、もしあれどんが言うたなら、いう程しに分かったとったら、もう俺達の信心は馬鹿んごとあるじゃないか。と、云う程しに私達は助かって行きよるんだ、おかげを頂いておるんだ、それはあの人達が助かっていく一つの過程なのだ。
 これからまたあの人達のこと祈っていきゃいい。なる程今は寂しい。かえってお母さんなんかはもうそれこそ寂しいでしょうねえ、三年間指折り数えて待って居られたのが、しかもそういう後味の悪いことでですね、もうそれこそちょいと布団を引き出したらかび臭かったちゅうてぷんぷん、そりゃ三年間もああたその衛生完備のアメリカでですね、生活して居られるから、水洗便所もなからなければその、ね、風呂場だって、炊事場だって、そりゃやっぱカチカチくることばっかりでしょう。その上にです。
 いわゆるみんながそのね、さあ弟だ、さあ弟の嫁だと、さあ貞造さん何なにさんと言うて大事に普通でならするところだけれども、そりゃまあ後でする積もりじゃった。御大祭どんが済んでゆっくりいっちょ話を、で御大祭には一緒に連れて参る筈じゃった。ところが全然思いはこうやって、そのタイミングもう私はその聞かせて頂ながら、素晴らしいと思うたです。もう帰って来られると通知のところからがですね、もうそのタイミングと云うのはスパッとこう合うことだけがタイミングじゃないです。
 これがね、反対にさっとこう一つ一つですね、反対に反対に最後までなっとるんですね。だからお母さんなんかもそのことでもうそれこそお母さんなんかくっとされるぐらいにあった。ね、まだあちらでほんとはアメリカのお土産話も聞いてない。恐らく合楽にこれだけたびたび手紙を出しよることじゃから、お供えくらい買うて来て居るに違いない。けれどもまだそういう物もまだ出して見せて貰ってない。
 その素晴らしいタイミングです、と云うのはこうピタッと合うことだけがタイミングではなくて、素晴らしい一つこう外れていくと云うタイミングもこりゃ素晴らしいことなんです。それを私聞きながら、こりゃぁまた貞造さん方ご夫婦も必ずおかげを頂かれる時が来るなと思うた。それは丁度御簾を編んで居る様なもの。つつろこと言いましょう、つつろこが右左になって行きよる。カチャッと合わんそれが素晴らしい御簾が編みあがって行きよる時だ。必ず御簾を奉つられる時期が来る。私はそんな風に感じたんです。
 まあ今日の九十九節とは少し意味が違うかも知れませんけれども、ね、ま、今日皆さんに聞いて頂いたような事の中からですね、昨日私がテレビで見せて貰うた漢方医が患者に対するその姿勢、その事こそが私は真だと、ね。それこそもう一番新しい医学を身につけてみえたなら貞造さん、恭造さんの弟さんが、素晴らしいお医者になられる為にはです、ね、近代医学を身につけられたその貞造さんが合楽の信心をほんとに身につけられた時こそ名医と云われる様なお医者さんが生まれられる時ではなかろうか。
 学が身を喰うのではなくて、いわば修めてこられた学問がいよいよ生きる時だと私は思う。それには何と云うてもです、自分自身で自分自身の、に聴診器が当てられるお医者さんにならなければ駄目だ。ね、と云う様なことを私感じました。為には先ず真で、がなければ人は助からん。なら人が助からんと云うことは、同時に自分自身が真がなからなければ、云うなら真の信心がなければ人は助からん。
 自分自身が真、真心を以って自分自身が助かって、そしてそこに近代医学を身につけた立派なお医者さんになられる時にです、ほんとの素晴らしいお医者さんがそこに出来られる事になるだろうと。と云う様なことを私は思わせて頂いた。同時に漢方医の映画の中に表れて居るところの漢方医の言うたことからですね、何かこう私ども金光様のご信心頂く者、とりわけ合楽でご信心頂いて居る者のね。
 人間の体と大天地と小天地をその様な密接な関係があるものだと。骨の数からが一年間の日数で出来て居る。ね、関節は云うならば十二カ月の月の数になっておる。ね、小さい関節は二十八、ね、それが一月の日数に当たっておると云う程しにですね、もう実に天地の摂理とでも申しましょうかね、もう素晴らしいその摂理に合うた生き方、道理に合うたいわば生き方をさして頂く。
 なる程如何に成行きを尊ばして貰うと云う様なことが有難い事かと、いった様なね、お互い信心の稽古をさして頂いておる者がです、ほんとにそういう中からそれに云うならマッチしたいわば生き方、と同時に自分の心の状態もです、ね、真を以ってええそういう事を体得していく信心にならして貰うと云うことが、とりも直さず自分自身が助かることになる。自分自身が助からずして人を助けると云うことは、そりゃ出来る筈が無い。ね、人も助からなければならん、先ず自分自身が真の人にならして貰うて、自分自身が助かる手立てを講じなければならんと云うことが分かりますですね。
   どうぞ。